1・31母の命日に想うこと

中川です、

少し重たいことを書くので、
タイトルで気になる方は読まれないでください。

今日1/31は、
母の命日でした。

母を病院で看取った
あの日から17年….
(49歳、病名はガンでした)

あの日のことは、
やっぱり今も忘れられず
記憶にこびりついています。

もっともっと親孝行がしたかった

社会人2年目で
自分でお金も稼げるようになり、

これからって時に・・・

今振り返っても
後悔することは沢山ありますが、

「バスケで日本一を見せたかった」

というのがそのうちの一つです。

母が亡くなる4カ月前・・・

治療中の身ながら
実業団の全国大会を
がんばって船橋まで観に来てくれました。

僕はこのとき
誰よりも日本一になりたかったです。

日本一になるところを
母に見せて元気づけたかった。

で、その試合、
勝てなかったんですよね。。

決勝戦、追い上げるも一歩届かず。

・・

そもそも
大学4年のインカレ前に
母の病気を知りました。

「明美(母の名前)が、
ガンになったみたいで・・」

親父からの
電話を受けたときは震えました。

これから学生最後の
インカレで優勝するぞ!!
と意気込んでいたときで、

「まだ初期やけ、大丈夫。」

と母は
僕らのインカレを観に
東京まで応援に来てくれました。

このとき親父と相談して決めたこと。

「(弟の)和之には内緒にしとこう・・」

双子の弟で末っ子の和之は
インカレ終了後、
アメリカ挑戦が決まっていました。

NBAを目指し、
ただでさえ異国の厳しい環境に
身を置くことになるので、

余計な心の負担はかけたくない・・・

和之には
母の病気のことは内緒にして、
僕はインカレのコートに立ちました。

勝ち上がり、いよいよ決勝戦。

学生チャンピオンを決める
大一番までやってきました。

ところが、、その試合

志村雄彦&竹内公輔選手
要する慶應義塾大の勢いに押され
無念の敗戦・・・

準優勝に終わり、
日本一になるところを見せられず、

すごく悔しくて
あのときは取り返せない敗戦に、

自分の中で卒業後も
ずっと引きずっていました。

・・

社会人2年目に得た、
実業団の全国決勝でも敗れ、

そこから4か月後・・

冬の全国にチャレンジしようと
頑張っていたところに
その日はやってきました。

….親父からでした。

「明美(母の名前)がもうダメかもしれん・・
直、帰ってきてくれ!」

闘病中の母の
様態が悪化したという連絡でした。
(母はこのとき自宅療養していました)

仕事の調整をし、
山口の実家に着いたのは
22:00。

親父が言っていたことの
意味を理解しました。

そこからは
壮絶でした。

翌朝、
母の発作が収まらなくなり
救急車を要請。

親父は辛くて見てられない、
ということで僕が一人帯同し、
病院に付いて行きました。

救急車のなか、
凄まじい苦しみ方をしている
自分の母親を見ているこの時が
人生で一番辛かったです。

思い出しても辛い・・・

うちの母は
言いたいことをはっきり言う
裏表のない人間でした。

いま、僕が昔を振り返っても

「え、そんなこと言っちゃうの?」
ってぐらい

まっすぐ過ぎて、
どちらかというと
要領が悪いほうの人間だったと思います。

救急車で病院へ
運ばれたあともずっと

「私は死なんよ!早く治してよ!!」

と医者に文句を言い続けているのです。

とんでもなく苦しそうな状態なのに・・・。

母は闘っていました。

「息子さん、この状態はよろしくないです。」

お医者さんに
鎮静剤を投与され、母は意識が朦朧。

しばらくは
音にならない声を出していましたが、
徐々に薬が効き始めたのか、
いよいよ何も喋れなくなりました。

ただ、
僕の言っていることは
聞こえているみたいで、

うなずいたり目で合図したり
こちらに返してくれるのです。

病院の一室に母と二人きり。

僕はこのとき悟りました。

いまこの瞬間が、
自分の母親との最期の時間になるのだろうなと。

母への最期の想いを
家族を代表して伝えることにしました。

何から何を話そうか。

とにかく
これまでの感謝の想いとか
楽しかったこととか、
1秒も途切れることなく
話し続けていたと思います。

まだ生きてくれている
この時間のなかで、

少しでも母が
喜びそうなことを
ひたすら言葉にして伝え続けました。

「参観日で一番きれいだったよ・・」

「部活後のハンバーグがマジで上手かった。
練習から帰ってくるのが楽しみだった」

「和之も健太郎(兄貴の名前)も言ってたよ」

とか・・

正直ここで書いてても
気恥ずかしい内容なんですが、

自分をこの世に生み、
育ててくれた親との最期に
言葉を選ぶことはありませんでした。

家族全員の代弁者として
とにかく母が喜んでくれそうなことを
言い続けました。

親父の分も
兄弟の分も
じいちゃんばあちゃんの分も
ぜんぶ伝えました。

・・

そうしているうちに
手を握る強さが
少しずつ弱まってきました。

1時間ぐらい母と
時間を過ごせたと思います。

最後は親父が駆けつけ、
母を抱きしめたところで
ようやく安心したのか
静かに天国へと旅立っていきました。

・・

その1週間後に
喪章をつけて
冬の全国に挑みました。

チームのみんなのおかげで
夏のリベンジを果たし、
社会人初の全国制覇。

天国から
日本一を見ててくれたかな?

この17年前の
社会人初の日本一は、
今も忘れない思い出です。

・・

自分を生んでくれた親の死にふれると
やはり死生観が変わります。

人生には終わりがやってくる。

あの日から決めたのは、

一度きりの人生、
悔いのないよう全力で生きたい。

これを
口先だけじゃなく
心から決意しました。

あれから17年。

自分に嘘なく、
毎日全力で生きられていると思います。

もしあなたのお母さんが
目の前にいるなら

ありがとうと伝えてあげてください。

僕が24歳の誕生日、
超照れくさかったですが、

「産んでくれてありがとう」

と言葉で伝えられたのは、
後悔していないことの一つです。

親に感謝を伝えるって大事です。

ぜひされてみてくださいね。

今日は
なんだかとても湿っぽい内容となり、
申し訳ありません。

母のことを
1年で一番想う日なので、
ここに書かせていただきました。

これからも自分の人生を
全力でがんばります。

最後までお読みいただき、
ありがとうございました。

中川直之

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考えるバスケットの会 会長 中川直之
学生・社会人で10度の日本一を達成するなかで培った、”考えるバスケット”を全国のさまざまなプレーヤー、コーチに広める活動を行っています。

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